身体との会話において大切なのは、患者さんが何を望んでいるかを見ぬくことである。患者さんが希望するは何か? これを見誤るとボタンの掛け違いで消化不良を起こしてしまう。後味が悪くてどうもすっきりしない。患者さんも同じである。
このことは治療に限ったことではない。スポーツ世界でも同じである。もちろん日常生活、家族関係、職場の上司と部下の関係も同じである。お互い対峙する関係でお互いのルールやイメージするものが一致しないと共に歩んでいくことに平行してサポートすることができない。
治療家が一番陥りやすいのはテクニックに患者さんを収めようとすることである。テクニックや治療家のルールに当てはめてその中で何とかしようとすると、そのテクニックやルールに当てはまるとドラマチックに改善したり、お互いに感動して「いい先生」「素直な患者」で万事ハッピーである。
かと言って、ルール無し、患者さんの言うがままの何でもありの基本がぶれてばかりでも治療家としてのアイデンティティ-がなくなってしまう。では、経営的にみるとこちらの形態もあってよしと考えることもできる。
スポーツでコーチと選手の関係はどうかみて見よう。小生の経験から見ると、現在の日本のスポーツ界は今だコーチ主体の見方が強く残っている。テクニックの修正、メンタルもコーチが主導権を握っている。コーチのルールで判断して、そのルールを選手に当てはめている。
なかには選手が求める答えを惜しげもなく、簡単に与えている。この関係は、当初は「親切な良いコーチだな」「わからないことはなんでも答えてくれる」・・選手とのコーチとのラポールの構築にはいい関係になる。逆のことを考えてみよう。
いつも答えを貰えることが当たり前になると、答えがもらえないとコーツに対して不信感や違和感を覚える。また、答えをもらってうまくいく行かないと、答えを出したコーチがに責任の所在を求める。更に、答えをもらうことによって依存度がまして、自立志向が低下する。特に勝負の世界では依存度が増してくるとは敗因の一つでもある。
患者さんと施術家にとっても同じである。治療家にとって患者さんから依存されること信頼されることが区別できない方がいる。患者さんが治療家に依存しているにもかかわらず、あたかも信頼を寄せているかのごとく勘違いをして、同情したり、同調したりすることが気づかないうちに行なっている。
そうなると、症状の改善がうまく行かなくなると、患者さんは改善しない責任を治療家に求める。これでは責任の押しけで患者さんが自立傾向で自ら目標に向かって歩むことができなくなる。府のサイクルから抜け出すことが出来ず、Drショピングやお医者さんのはしごである。経営的に見るといいことなのかもしれない。
では、この現象を経営的にみるのか・・ あるいは、患者さんの本質的な問題解決するという患者さんの目線でみるのか・・・どう思いますか? 患者さんは何を求めてくるか、選手は何を求めているか・・見ぬくことが必要である。
拳骨
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