2013年2月20日水曜日

体罰2・・・身体との会話198


前回の続きになるが、臨床の現場においてもスポーツ選手の問題は身体の障害だけにとどまらず、障害の背景には指導者と選手の人間関係が関与していることもある。先日こんな選手が見えた。

少年野球の選手で、指導者から「走り方のフォームがおかしいから走れないんだろ。だからレギュラーで使えない。」と言われて、お父さんがなんとかなフォームを直してくれと来院した。お父さんの目から見ては実際にはそんなに早い、遅いの差はないようだ。

野球の走力はベースランといって、ベースを回る際にベースを踏む位置や走る際のライン取りがベースランの早い遅いにかかわってくる。よって、同じ50M走で同タイムでもベースランのコースライン取りの違いで差が出る。

このコースラインの取り方は指導者が教えるべきであるが、少年野球の指導者がどれほど知っているか疑問である。欲を言えば打球の方向、野手の動きでもベースランは変わってくる。そこまで予測して走るのがベースランである。

指導者は自分の理想であるフォームを持っている。バッティングフォーム、ランニングフォーム、投球フォームと、そのフォームが同じ選手は気に入られる。フォームが違うと変えられることがある。能力の高い選手はあまり変えられることはないが、ほとんどの選手が変えられる。

投球フォームなどは最たるものである。フォームを変えることができないと何かとレギュラー入りも難しくなる。指導者からみて素直じゃないとなる。そうなると体罰ではないが試合に出場することはもちろん練習も同じことをさせてもらえない。

これマアだけでなく、プロも少なからずある。オリンピック選手にあっても同様である。日本のスポーツ界の土壌がそういうものであることは事実である。

学校の部活は選手が試合に出るか出ないかは大きな違いがある。それは、選手以上に父兄が思っていることがある。選手は補欠でも裏方でも学びがあり、部活を通して人間形成は見事に成長する、。

高校野球など見ていると、それ以上に父兄の気持ちの入れ方は半端じゃない。よって、指導者から嫌われたらベンチ入りなどありえない。少しくらいの体罰など目をつぶるのが現状である。指導に関して父兄が口をはさむのはいっさい厳禁なところもある。

最近のアマのスポーツ競技は全国大会になるとTV放映するので、学校経営者も良い宣伝になる。マラソンや野球といった長時間にわたって全国区で放映されるのは名が売れる。経営者もスポーツに力を入れるために、越境して選手を集め特待制度で優秀な選手を集める。

全国に出ることによって指導者は優秀な指導者として崇め奉られて、多少のことは目をつむってまで指導を行わせる。当然、指導法などに経営者は口などはさめなくなる。それが習慣化すると体罰などは罪の意識などなくなり、当たり前のことになる。





2013年2月16日土曜日

体罰1・・・身体との会話197


久しぶりの更新です。

最近、体罰が話題である。犠牲者が出て初めて公になり、物議を呼んでいる。日本のスポーツ界において、特に競技スポーツを行っていた方は一度や二度は経験があるだろう。小生の身近な指導者にも人目をはばかることなく叩いている方がいる。

以前はチームにかかわっていたので、練習の現場に出かけて行ってみていたが、やはりいろいろな指導者がいる。理論家、実践型、カリスマ型・・・それぞれ個性があり、試合でもそこそこ結果を出している。

ここでは体罰を良いか、悪いかという議論ではなく体罰の背景的なものを考えてみたい。日本のスポーツが一般化されたのは戦後であり、東京オリンピックで弾みがつき老若男女が健康を目的に広がったようである。

それまでは「スポーツ」といった言葉自体が普及しておらず「体育」といった、身体を動かして心身の育成が目的であったようだ。特に日本では心身の鍛練には武道が奨励されていて、ボールなどの球技などはごく一部の人たちが行っていた。

武道とスポーツは根本的に違うのでそこを理解しなで混同していると、おかしな解釈でひとくくりにしてしまうといいとか、悪いとかになってしまう。まず、武道は楽しみなどないもので、礼節から入っていくものである。

柔道、剣道、空手道・・相手を敬う礼節、所作、忍耐、命の尊さなどを学ぶためのものであり、ある程度の厳しさや、我慢強さを身につけるためにある。スポーツは礼節より楽しみから入れる。キャッチボール、サッカーなどは小さなお子さんとお父さんやお母さんが広場で手軽にできる。

まずは楽しみ、親子のコミニュケーションからできるのがスポーツである。武道とスポーツの大きな違いはここにある。真冬の外で、素足で寒稽古など欧米人からみたら信じられないだろう。今でこそ武道をやっている欧米人はときどきニュースに出るが。

スポーツは室内体育館で冷暖房が利いたところでできる。環境までも武道とスポーツは違う。その武道をオリンピックに取り入れ用と苦労されたのが柔道の生みの親である「加納治五郎」である。その夢がかなって東京オリンピックで初めて柔道が種目入りした。

その日本の柔道界で指導者が体罰で選手の謀反をひるがえすような感情的な展開になってしまたた。日本のお家芸の柔道で勝てないとプレッシャーはすごいものを感じるだろう。身近に感じた例が私学の高校野球の監督など典型的な例である。

勝利主義の高校野球で数年甲子園に出場ができないと首のすげ替えなど当たり前の世界である。勝てば官軍で教職員の席順まで勝ち組と負け組では上座、下座にわかれる。中には胃潰瘍など身体的障害を起こしたり、転職する指導者も出てくる。

よく言われる言葉に「楽しんでやれ」という言葉があるが、いろいろな解釈ができるだろうが、武道においても厳しさや投げられた痛さからは到底楽しみなどわきあがってこない。スポーツにおいても競技スポーツの色が濃くなればなるほど練習のつらさや、疲労感で楽しみなど縁遠い。

試合で勝って初めて練習の辛さや、きつさが忘れられるというものである。試合で勝利するのは一人か一チームしかないので多くの人が涙をのむのが現実である。その多くの人は負けても、その過程においての辛さを糧にすることも学びである。・・続く