2013年2月16日土曜日

体罰1・・・身体との会話197


久しぶりの更新です。

最近、体罰が話題である。犠牲者が出て初めて公になり、物議を呼んでいる。日本のスポーツ界において、特に競技スポーツを行っていた方は一度や二度は経験があるだろう。小生の身近な指導者にも人目をはばかることなく叩いている方がいる。

以前はチームにかかわっていたので、練習の現場に出かけて行ってみていたが、やはりいろいろな指導者がいる。理論家、実践型、カリスマ型・・・それぞれ個性があり、試合でもそこそこ結果を出している。

ここでは体罰を良いか、悪いかという議論ではなく体罰の背景的なものを考えてみたい。日本のスポーツが一般化されたのは戦後であり、東京オリンピックで弾みがつき老若男女が健康を目的に広がったようである。

それまでは「スポーツ」といった言葉自体が普及しておらず「体育」といった、身体を動かして心身の育成が目的であったようだ。特に日本では心身の鍛練には武道が奨励されていて、ボールなどの球技などはごく一部の人たちが行っていた。

武道とスポーツは根本的に違うのでそこを理解しなで混同していると、おかしな解釈でひとくくりにしてしまうといいとか、悪いとかになってしまう。まず、武道は楽しみなどないもので、礼節から入っていくものである。

柔道、剣道、空手道・・相手を敬う礼節、所作、忍耐、命の尊さなどを学ぶためのものであり、ある程度の厳しさや、我慢強さを身につけるためにある。スポーツは礼節より楽しみから入れる。キャッチボール、サッカーなどは小さなお子さんとお父さんやお母さんが広場で手軽にできる。

まずは楽しみ、親子のコミニュケーションからできるのがスポーツである。武道とスポーツの大きな違いはここにある。真冬の外で、素足で寒稽古など欧米人からみたら信じられないだろう。今でこそ武道をやっている欧米人はときどきニュースに出るが。

スポーツは室内体育館で冷暖房が利いたところでできる。環境までも武道とスポーツは違う。その武道をオリンピックに取り入れ用と苦労されたのが柔道の生みの親である「加納治五郎」である。その夢がかなって東京オリンピックで初めて柔道が種目入りした。

その日本の柔道界で指導者が体罰で選手の謀反をひるがえすような感情的な展開になってしまたた。日本のお家芸の柔道で勝てないとプレッシャーはすごいものを感じるだろう。身近に感じた例が私学の高校野球の監督など典型的な例である。

勝利主義の高校野球で数年甲子園に出場ができないと首のすげ替えなど当たり前の世界である。勝てば官軍で教職員の席順まで勝ち組と負け組では上座、下座にわかれる。中には胃潰瘍など身体的障害を起こしたり、転職する指導者も出てくる。

よく言われる言葉に「楽しんでやれ」という言葉があるが、いろいろな解釈ができるだろうが、武道においても厳しさや投げられた痛さからは到底楽しみなどわきあがってこない。スポーツにおいても競技スポーツの色が濃くなればなるほど練習のつらさや、疲労感で楽しみなど縁遠い。

試合で勝って初めて練習の辛さや、きつさが忘れられるというものである。試合で勝利するのは一人か一チームしかないので多くの人が涙をのむのが現実である。その多くの人は負けても、その過程においての辛さを糧にすることも学びである。・・続く



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