2012年5月23日水曜日

身体との会話117・・・AMI公認AM大阪セミナー




第44回AMI公認AM大阪セミナーが20日と21日行われた。満席の受講生の参加があり熱い学びの中で終わった。この時期に沢山の受講生の参加で満席になるのは憂いしことでもあり、受講生の希望に応えられるような内容を提供する責任も感じる。

AMI公認セミナーはAMI社のプログラムを忠実に提供している。更に、受講生が何を求めているか、何を求められているか常にアンケートを参考に臨床という現場にあったものを提供していくことを心がけている。

参加する動機は様々であるが、熱い学び心は同じである。カイロプラクティックを構造的なイメージで捉えてAMI公認セミナーに参加すると、勝手が違ってくる。構造からアプローチとは違うので、どうしても比較してしまう。

自分の思考にインプットされた情報は整理されて刻まれている情報を信じることがエネルギーになりアウトプットされて行動につながる。この情報の整理は自身の経験や環境、思想が整理する。このことは信念や価値観を形成するうえで重要な部分である。

一度、形成された信念や価値観を変化させるのは、そうたやすく変えることはできない。それを変えることは自己否定にもなる。存在感を左右するものであもある。これは知識や学問でも同じである。一度教育されたものは自己を形成する核になる部分でもある。

この教育が信念や価値感を形成するが、価値観で冷静に見てみると何か気づくはずである。価値感と価値観は意識、無意識の違いでもあり、この対峙する「カチカ」を自問自答すると更に深い気づきが得られる。

この「カチカン」に境界線を引いてしまうと「分」を作ってしまう。この分は大切でもあり窮屈でもある。日本語には「分」に関わる言葉がある。「身分」「分をわきまえる」「分相応」「知足安分」「大義名分」・・この分はわれわれの業界にも言える。

同じ医療、身体の健康を扱うものでもそれぞれの専門分野がある。この分は文化の違いでも異なってくる。古くは江戸から蘭学と漢方学の分の違いもある。当時からいがみ合っていたようだ。こっちのほうが優れている、そっちが劣っている・・

純粋に健康をみるのであれば分け隔てなくお互いの垣根を取り払い協力してみていくのが理想である。どの業界も類似業種との関係を分をわきまえず一線を超えてズケズケ入って来ると感情が働き、抵抗するようになる。

セミナーに受講されている先生方もそれぞれのバックボーンがありその分野の専門家である。あえて患者さんの利益を考えて他種の技術を学ぼうと努力している姿は素晴らしい。この時の専門分野から一線を越えることは社会の役に立つことである。

分を越えることと、わきまえないことでは違いがある。分をわきまえて一線を超えて他種の分に入り込むのは大きな利益が生じる。なんといっても患者さんが大きな利益をえることになる。西洋医学の専門家、東洋医学の専門家、カイロプラクティックの専門家、鍼灸の専門家、柔整の専門家・・

分をわきまえて分を超えてくるが学ぶ謙虚さには差別はない。まして、学ぶ理由が患者さんの利益という志が同じであれば、何ら問題はない。


拳骨

2012年5月3日木曜日

身体との会話116・・・ICC国際コーチング6



最近の気づきは人生を考えさせる気づきがおおい。更にその気づきが大きく、深い意味があることに驚かされる。臨床を30年もやっていてなぜそんなことに気づきもせず、深い考えもなくやっていたのか恥ずかくなる。穴があったら入りたいということはこのことだろう。

前回に患者さんとの間のとり方や居心地の良さを書いたが、その背景にある気づきを得た。実に当たり前のことで、日々考えもしないが深く考えれば深い答えが見いだせるかもしれないし、軽くか考えれば軽い答えが見いだせるだろう。本人次第だ。

小生の人生には生活もあり、仕事もあり、環境もある更に細かく言えば家族関係、人間関係、金銭関係全てにおいて人生である。自然環境に癒されることも人生であるから草木の芽吹きや鳥の鳴き声までが人生の一部である。すなわち感性も人生である。

意識的に計算高く生きていくことや自然に癒される感性的なことも、無意識的な人生感である。ここで人生感と人生観が出てくる。この「感」と「観」と出は意味合いがかわる。感は正に感情しか生まれない。すなわち人生感は本能的な感情の部分で無意識といえる。本音の部分とも言える。

人生観は、多くの出来事を理性で解釈し理路整然と情を受け入れて容認し、苦難に立ち向かうエネルギーにもなる。私たちは人生観と人生感、すなわち意識と無意識の間で自問自答をしていろいろな気づきを得て、日々の問題や悩みを解決している。

その意識と無意識の間に揺れながら日々臨床を通して、患者さん向き合っている。その向き合いの中で患者さんの健康とどこまで関わっていけるのか? あるいは、関わっていくべきなのか? 悪ァっていいのか? 関わってはいけないのか? 今更そんな事言われなくても・・・と、言いたくなるが解っているようでわかっていない。

分からなくても治療は成立するだろうし、患者さんとのラポールも気づくことはできるだろう。今更と思うが、しかし、これを考えると仕事の価値観や治療の価値観にも変化が表れるはずだ。関わることは責任が発生する。この責任は仕事を通して、あるいは、治療を通しての人生での責任でもある。

この責任も患者さんとの関わる深さで重くもなり、軽くもなる。関わる方の腹で決まる。さて、もう一度患者さんの健康にどこまで関わるのか考えてみる。オフィスにら医院して痛みが取れればそこまで。その時の一時的な関わり方。それもよし。

臨床30年もこの地でできることはそれなりに地域からの信頼があると思っている。その信頼を得るのも患者さんの健康に関わってきた安心や頼りにされていることになると思う。この信頼を得ることはオフィス内の一時の出来事に関わることではできない。地域の皆様の健康と一生関わっていくことでできると思う。

当然、責任は重くなると同時に間を取り間違えると気づかないうちに深みにはまり、抜けなくなり関わりが施術者依存のコミニケーションが形成されて、更に責任の所在が施術者にのしかかることになる。良し悪しである。深く考えれば深い答えが見いだせる。浅く考えれば浅い答えが見いだせる。


拳骨