2012年5月3日木曜日

身体との会話116・・・ICC国際コーチング6



最近の気づきは人生を考えさせる気づきがおおい。更にその気づきが大きく、深い意味があることに驚かされる。臨床を30年もやっていてなぜそんなことに気づきもせず、深い考えもなくやっていたのか恥ずかくなる。穴があったら入りたいということはこのことだろう。

前回に患者さんとの間のとり方や居心地の良さを書いたが、その背景にある気づきを得た。実に当たり前のことで、日々考えもしないが深く考えれば深い答えが見いだせるかもしれないし、軽くか考えれば軽い答えが見いだせるだろう。本人次第だ。

小生の人生には生活もあり、仕事もあり、環境もある更に細かく言えば家族関係、人間関係、金銭関係全てにおいて人生である。自然環境に癒されることも人生であるから草木の芽吹きや鳥の鳴き声までが人生の一部である。すなわち感性も人生である。

意識的に計算高く生きていくことや自然に癒される感性的なことも、無意識的な人生感である。ここで人生感と人生観が出てくる。この「感」と「観」と出は意味合いがかわる。感は正に感情しか生まれない。すなわち人生感は本能的な感情の部分で無意識といえる。本音の部分とも言える。

人生観は、多くの出来事を理性で解釈し理路整然と情を受け入れて容認し、苦難に立ち向かうエネルギーにもなる。私たちは人生観と人生感、すなわち意識と無意識の間で自問自答をしていろいろな気づきを得て、日々の問題や悩みを解決している。

その意識と無意識の間に揺れながら日々臨床を通して、患者さん向き合っている。その向き合いの中で患者さんの健康とどこまで関わっていけるのか? あるいは、関わっていくべきなのか? 悪ァっていいのか? 関わってはいけないのか? 今更そんな事言われなくても・・・と、言いたくなるが解っているようでわかっていない。

分からなくても治療は成立するだろうし、患者さんとのラポールも気づくことはできるだろう。今更と思うが、しかし、これを考えると仕事の価値観や治療の価値観にも変化が表れるはずだ。関わることは責任が発生する。この責任は仕事を通して、あるいは、治療を通しての人生での責任でもある。

この責任も患者さんとの関わる深さで重くもなり、軽くもなる。関わる方の腹で決まる。さて、もう一度患者さんの健康にどこまで関わるのか考えてみる。オフィスにら医院して痛みが取れればそこまで。その時の一時的な関わり方。それもよし。

臨床30年もこの地でできることはそれなりに地域からの信頼があると思っている。その信頼を得るのも患者さんの健康に関わってきた安心や頼りにされていることになると思う。この信頼を得ることはオフィス内の一時の出来事に関わることではできない。地域の皆様の健康と一生関わっていくことでできると思う。

当然、責任は重くなると同時に間を取り間違えると気づかないうちに深みにはまり、抜けなくなり関わりが施術者依存のコミニケーションが形成されて、更に責任の所在が施術者にのしかかることになる。良し悪しである。深く考えれば深い答えが見いだせる。浅く考えれば浅い答えが見いだせる。


拳骨




2 件のコメント:

  1. ここに到るともう達観ではないでしょうか。私は臨床家ではありませんが、私個としての人生観に教えてもらうことがあります。「人生観は、多くの出来事を理性で解釈し理路整然と情を受け入れて容認し、苦難に立ち向かうエネルギーにもなる」…けだし名言です。

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  2. 北島様、コメント有難うございます。ここは迷うところでは無く、考えるところですが、深く考えれば考えるほど思考の視野が狭くなり迷うってしまいます。人生感からは怒りや悲しみの感情を素直に表現し、人生観からは冷静に物事の判断をして本音と建前、本能と理性のやり取りの妙でバランスが保たれることによって「人生」があると思います。このバランスが崩れると秩序を乱したり、反社会的になったり、社会と馴染めなかったりとアンバランスな人生を歩むことになると思います。
    出来事を理性で解釈することは大切です。更に、情を受け入れることは身体エネルギーの観点からはそれ以上の大切になります。情を受け入れて容認することは自己の無意識を受け入れる、すなわち潜在的なもう一人の自己に気づき認めることによって潜在的なエネルギーが生まれます。それが人生を形成し、生命維持の源になると思います。

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