2012年2月29日水曜日

身体との会話111・・・第43回AMI公認AM東京セミナー

先日、AMI公認AM東京セミナーがあった。沢山の先生方に受講して頂いた。なかには遠方より参加された先生方も居た。資格も柔整やカイロ学位保持者と様々だが学ぶものは同じだ。提供する内容はAMI本部の指導どおりの内容である。

スライド、リサーチの内容はAMI本部からのものと全く同じである。受講される先生方はそれぞれテーマを持って受講しているはずである。大方は、テクニックに関する事がテーマになると思う。臨床の根幹部分は技術になるから技術を少しでも向上させるために参加することに間違いはない。

セミナーにはAMリサーチもある。内容は素晴らしい内容である。Dr.Fuhrの哲学や研究が盛りだくさん組まれている。リサーチはデーターすなわち事実である。この事実を見逃して勝手に想像したり、思い込んでいるといつの間にかどこかでボタンの掛け違いして、指摘されるまで気付かない。

事実をしっかり把握していない人ほど思い込みや勝手なイメージが強く自分なりのルールを頑なに守ろうとする。自分のルールもこのような思い込みやイメージで作るものであり、そのルールに他の物をみる物差しにするために、ルールに入らないことには違和感を感じる。

更に、この違和感をルールに当てはめて白黒あるいは合否、優劣といった明確な線引きをして、自分のルールはどちらかに入らないうと安心できず、どちらかに収めたくなる。そんな場合は自分をどちらかに入れるかは大方は同じである。

また、その優劣を周りの環境、すなわち周りの目を見ながらどちらかに置きたくなる。数の論理的に多い方に自分を置きたがる。一般化された情報や流行りに乗り遅れないように多くの人が集まる方に見を置きたがる。そうすることで安心が生じほっとする。人並みと感じるときである。

この時に生じる安心感は、一歩間違うと秩序を乱すことになる。例えば信号が赤はストップであるが、みんなで渡れば怖くないなどと漫才の世界と同じである。100人中90人が赤で渡れば、それが常識になってしまうことだってありうる。極端なことを言うと99人が赤で渡っていて、自分一人だけ青で渡れるかということである。

物事の良し悪しをつけたがる心理はここにある。優劣をはっきりさせ優の方に身を置きたいのは当然であるが、優劣を決めなければだめとなると、良い人悪い人が出てきて、義務や権利が混同してやたらと権利を主張する傾向になる。義務と権利は依存か自立にもかかわってくる。

日本には義務教育という制度がある。良い悪いは別として「教育は義務で受ける」ものか「自主的に学ぶ」ものか・・学校教育とは何かを得るために基礎的な教育を受ける機関でもある。セミナーは主に卒後教育であり、義務教育ではない。

ただし、自主的であってもある種のセミナーは認定更新という義務を課せられている。言語上「認定更新の義務」である。よって義務で参加される受講生のほとんどが義務感で受講するために学ぶ姿勢が自ずと違って、自主性も薄れ依存する事が強くなる。

依存傾向が強くなると、責任の所在も違ってくる。責任所在が相手になる。「義務=依存=相手が責任」の図式が見えてくる。セミナーに参加される受講生が全てというわけではないが、学ぶ姿勢はあるが自主性が隠れてしまっている。

教えてもらわなければ、わたしはそんなこと学びに来ているのでは無い、手とり足取り教えてほしい・・依存である。この依存は結果が出ないとその責任を教えた側に責任を求める傾向に有る。教えてもらったとおりにやったら失敗した治らない、結果がでない・・自分を通り超えて教えた側に求める。

依存的か自主的かで学びを浅いものになるか深いものになるかが決まる。我々のやっている臨床は机上の上の学問のように答えがあるわけでなく、答えが無い、答えようが無いナゾを説いているので優劣もなければ良し悪しも無い。どちらか一方を決めるのでもない。

自分で気づきの中でこんな考えもある、あんな考えもある・・選択をするのは受講生の皆さんである。そんなこところに気付いて頂ければ、自分を臨床家として伸ばすためのハードルが超える事ができると思う。


拳骨

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