2011年8月17日水曜日

身体との会話93・・・臨書

東洋は伝統工芸が盛んである。この伝統工芸の継承は口伝えが多く、記述的に詳細に記録して伝承しているのは少ない。感覚を数値化して誰でも同じことができたり、作ったりすることが理想である。手技療法の技術も同じである。

手技的なものを数値化して、誰でも同じ数値を出せば同じ治療結果がでる。こんないいことはない。これは西洋的な人間支配の文化である。人間が最高の生物で人間より上位に存在するのが神である。しかし、この神も人間が作ったものである。

西洋の文化は、数値化された機械的な文化であり、その機械的思考は医療の分野でも浸透している。カイロプラクティックも同じである。DDパーマは毒や精神も身体健康に影響するといって、必ずしも構造異常だけを原因であるとは言っていない。

数値化することによって、誰でも同じ結果が出ることは世界共通の結果が出るということである。しかし、カイロは本来手技という言葉である。手技を数値化すること自体が無理がある。まして、右がずれている、左がずれているといったことを手で触診しながら評価することは感覚の世界である。

感覚は数値化することは出来ず、言語で表現することもできない。まして、教えることができない。しかし、感覚で感じ取ることができると、何を言っているのか、訴えているのかがわかるようになる。臨床検査で出てくる数値は白黒はっきりさせて基準的な線引きをして、グレーの世界を見逃している。

このグレーの世界を見逃すと、数値では正常だが、症状は出ている。あるいは、数値では異常だが症状は出ていない。薬は飲んだほうがいいになってしまう。現代医学の盲点、いや機会論的思考の盲点といいべきだろう。

話は飛ぶが、臨書という言葉がある。臨書とは書道の世界で手本を真似てそっくりに書き上げることである。一言でいいえばそうだが、この臨書は奥が深い。たかが真似事かと思うが、そう思う人にはたかが真似事で終わってしまう。それ以上のものは無い。

先人の書物をそっくり写し書きをして、先人の心を読むのが臨床である。例えば、書道のしんにゅう、跳ね、止めなどの筆運びに心が表れる。先人が書いているときに何を思っているのかがわかるという。心の緊張が字に現れるという。

臨書は、ただ真似るのではなく先人がどんな思いで書いているか、感じ取ることができるという。先人の心が読めると言っていい。手技の世界も真似事から入る事が多い。最初は、ただ漠然とやり方だけを真似るだろう。それでいいと思う。

習得技術が進むに連れて、真似事から自己の個性?が出てくる。個性であればいいが、自己流になってしまう。自己流になると自分で外から見ることが出ず、大海が見えなくなる。危険である。そんな時は先人の一挙手一動作を真似て、どんなおもいで行っているか考えながら行うのもよし。

お盆休みも無駄にならない気づきが得られた。

拳骨



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